2013年10月17日

日本からフランスへ(その4)

2009年の秋、試験的にフランスのシンセメーカーでひと月ちょっと仕事をして帰国し、しばらくすると、その会社の社長から「来年の4月から3ヶ月間、家族と一緒に招待します。その際、正式にフランスで就業するための手続きなどやりましょう」と言う連絡が来た。
とうとうヨーロッパでの就職、移住が現実のものになったのですが、渡航直前に娘が入院で延期(変更利かない格安チケットだったため買い直すハメに…)退院して出発のため空港に行ったら、アイスランドの火山の影響で飛行機が飛ばない。いつ飛ぶかわからない状態…もう、呪われていると思いました。私を日本から脱出させないために、見えない手が私を後ろから羽交い絞めにしている、と。
でも、ここで一計を案じ、出発が大幅に遅れたため現地での仕事の期間も不明になった。いつ帰国できるか読めないので帰りの便をキャンセルして払い戻してくれ、と航空会社に掛けあってみました。すると答えはOK。
最初のキャンセルで家族三人一往復分無駄にしてしまいましたが、この払い戻しが出来たため、次回フランスに渡るとき、向こうで買った往復の帰りのチケットが使えるのです。そうでない場合、日本からフランスへ高額な片道チケットを買うか、一年オープンの往復チケットを買わねばなりませんが、そうなると毎年日本とフランスを往復し続けるか、片道分をキャンセルするか捨てるかしないとならないのですね。いずれにせよ、飛行機のチケット、殆どの場合日本で買うより海外で買ったほうが安いのでこれは幸いでした。
どうにかこうにか5月上旬にフランスに辿り着き、会社が用意してくれた前回と同じ、グルノーブルに隣接するメイラン市にある滞在型ホテルでの生活が始まります。部屋はちょっと狭いけど、ひと通りなんでも揃っていて、まずまずの快適さ。
娘はまだ2歳と小さいので異なる環境でも直ぐに慣れましたが、海外で暮らした経験のない妻にとっては、最初はかなり大変だったようですが、美しい自然や安くて美味しい食材にワイン、散歩に出る公園で顔見知りが出来たことなどもあり、徐々に馴染んでくれたようです。妻がフランス移住に不同意だと、これはもう後で大変なことになるので、ちょっと安心(実は一旦日本に戻ってからちょっと大変なことになるのですけど)。
会社は去年居たメンバーが2名ほどいなくなっていましたが、インターンも数名いて、昨年よりは賑やかでした。仕事も去年と変わらずやりやすく、ゆる〜っと出社して5時過ぎには帰り、ゆっくり夕食を作って、ワインを楽しみ、週末は周辺へ観光に出かけるという日本に比べると遥かに優雅な生活。
グルノーブルの日仏交流協会にも紹介してもらい、未だ正式な住所がないのに特別な計らいで会員になり、娘は日本語補習校に併設されていた、幼児クラスに毎週通います。幸い、ホテルから歩いていける距離。
この期間中に、現在世界で大人気の、小型アナログシンセの企画が始まり、私はもう、自分が欲しいと思うシンセを作りたかったので、規模と価格帯的には考えられないような仕様を提案しましたが、そのほとんどは幸いなことに実装されています。
また、このメーカーのメインプロダクトであるヴァーチャル・ヴィンテージ・シンセの為に、日本の知り合いから、ある大型のシンセサイザーを借り受ける算段もするのですが、これが後に大変ややこしい事態を生むことになるとは、当事は夢にも思いませんでした。
滞在中は大きなトラブルもなく、必要な書類を揃えて、就労ヴィザ申請のため、7月中旬に家族ともども一旦帰国します。それまで住んでいた沖縄はもう、家賃払うのももったいないし、全員で沖縄に戻って再渡仏するのも億劫なので、妻は実家に、私は原則流浪という生活が始まります。予定では3ヶ月後にはフランスに戻って正式に就業する事になっていたので、まあ、なんとかなるかと。
しかし実際にはフランスは8月中、役所の業務が完全にストップしてしまうので私の就労ヴィザは4ヶ月後の11月になってようやく下りたのです。あとで判ったことですが、4ヶ月で降りたのはむしろ奇跡的に早かったそうです。今となっては頷けますけどね。うひゃー。
私の就労ヴィザは出ましたが、なんと家族の分が出ません。労働局はOKだったそうなのですが、移民局がダメだと。家族のヴィザを取るには私がまず単身で1年半以上働くか、毎月手取りで4500ユーロ以上の報酬を受け取るか、どちらかの条件をクリアしないといけないんだそうです。外国人雇うなら前もって調べておけよそのくらい、と言いたいところですが、時すでに遅し。4500ユーロと言うのは、普通ちょっと有り得ない報酬です。その会社の社長でもそんなに取っているかどうかって言う金額です。通常手取り額1000ユーロ台で2000に届く人少ないって言う状況です。
家族の分は来てから相談しよう、とにかくまずは一人でも来てくれ、と言うので家族を妻の実家に残し、単身渡仏したのが2010年の11月9日でした。
それから家族と再合流するまで、実に5ヶ月待たねばなりませんでした。長い長い5ヶ月間。

To be continued......
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2013年07月23日

日本からフランスへ(その3)

私はこれまで、会社勤め、というものをしたことがありません。かつて会社を経営したことはありますが、それは音楽プロダクションであり、毎日定時に出社するわけではないし、土日祝祭日に休むわけでもないので、一般的な企業人とは全く事情が違います。日本の勤め人生活がどんなものかは、想像する以外にありません。
勿論、浜松の世界最大手楽器メーカーに出向いて、近くのホテルに滞在し、場合によっては一ヶ月近くそこで仕事をしたこともあったので、会社の雰囲気、というものはなんとなく解ります。そして、自分にはこれはとても勤まらないなあ、とずっと思っていました。
この大手楽器メーカーとはそれはそれは長い付き合いだったのですが、はじめの頃、もう30年以上前なんですが、その頃は非常にくだけた感じで、さすがは楽器メーカーっていう感じのアバウトさがあったんですが、年を追う毎にどんどんカッチリキッチリしてきて、それと共に「ミュージシャンから見ると無駄な手間」と言うのが多くなってきたように感じました。報酬の支払も、はじめの頃は現金だったんですよね。今じゃ考えられないあの時代の風習。

さて、フランスです。
時期は2009年の9月28日から10月末までの一ヶ月ちょっと。
フランスには、まず、出退社時間を刻印するタイムカード、と言うものがありません。9時出社と言うのは9時「頃」出社です。プラスマイナス15分くらいは、オンタイムとされます。
そして会社に来てしばらくは全員のオフィスに顔だして朝の挨拶、それからコーヒー淹れて、仕事開始まで30分くらいのタイムラグがあります。まあ大体仕事が本格的に始まるのが午前10時頃。
私の仕事は、そのメーカーの製品で音色を作ったり、製品改良のアドバイスをしたり、デモ曲を作ったり、など、今まで複数のメーカー相手にやっていた仕事が、そのままその一社オンリーになったというだけで、内容は殆ど変わりません。違うのは言語くらい。
フランスというと英語が通じない国というイメージがありますが、さすがに音楽産業は英語が国際的標準言語なので、英語でOKです。最初のミーティングで、私一人のために全員が英語でミーティングするのに、ちょっと感激したりしました。
そして昼休みも、12:30頃から皆適当に外食したり、弁当を広げたり、サンドイッチを買いに行ったり。私は最初の頃外食やサンドイッチでしたが、すぐ弁当になりました。食材が美味しいので、料理がそれはそれは楽しくて。外食の場合、ついついビールやワイン飲んでしまい、高くつくし。フランスでは昼休みにビールやワイン、普通です。オーストラリアもそうだったし、イギリスも。
あと弁当だと、社内のサロンで他の同僚たちと、いろいろな話ができて楽しかったというのもあります。この会社、同僚たちはホントにいい奴ばかりで、ある古参の社員は、フランスでもこれだけいい人間ばかり集まってくる会社は珍しいと思うよ、と言ってました。
更に金曜になると、午後五時から社内でビアタイムが始まるのです。なんて楽しい。
でも気になったことがあって、前回2007年に表敬訪問してくれた時に会った社員がだいぶ入れ替わっていた事、創業当初からいるのが、社長ともう一人だけということ(前のかいで、これ伏線、と書いた部分)。
もうかなり前に、このメーカーを知って関わるようになり、音色を提供したりベータテストをやっていた頃にやり取りしていたエンジニア、もう一人しかいないんです。この事の真相はだいぶ後になって判りますが、それは今置いといて。
なんだかんだで1時間半から2時間近くが昼休みですね。一応規則では1時間なんだけど、まず誰も気にしないんです。
そして2時頃から5時過ぎまで仕事して、もう帰宅。
きちんと仕事している時間、一日わずか5時間ですが、人間が仕事にきちんと集中できるのって、一日3〜4時間が限度と言いますから、実はダラダラ長時間仕事するより、能率はいいと思います。日本の某大手楽器メーカーで仕事した時は、もっと長い時間、物凄い集中度で仕事したこともありますが、あれは期間限定だから出来ることで、しかもホテル住まいで身の回りの事をする心配がなかったからで、普通に暮らして、あれをやったら恐らく病気になります。

何日かして、社長が私のオフィスに来て、君は素晴らしい、是非正式に契約して欲しい、と言われた時私も、この国だったらサラリーマンになることも出来るだろう、と思いました。
さて、この時期ちょうど、このメーカーは創業10周年記念イベントを開こうとしていて、私も当然これに巻き込まれるというか、音響の責任者として関わるのですが、これがちょっと大変でした。まず、これに関する連絡社内メールに限ってフランス語のみで回ってくるので、私は最初、こんなイベントがあって、そこで自分がどう言う役割を求められているかも、だいぶ後になってから気づいたのです。
イベントは2日間で、初日がカンファレンスとライブ、そして会場を変えてディナーパーティ。翌日は社屋で懇親会と新製品デモなど。
カンファレンスの会場には、グルノーブル美術館のホールを借りたのですが、ここの担当者の女性があまり協力的でない。しかも音響担当者が不在で、会場備え付けの音響設備、電源入れて接続するのはいいが、ツマミを動かすことまかりならん、と言うのです。
おまけに彼女、私が英語で何か質問しようとすると綺麗な発音で「I don't speak English!」と叫んでコミュニケーション拒否。同僚が通訳してくれるのですが、基本的に音響機材の知識がないのでほとんど役立たず。
同僚からは、プライド高いだけのバカ女、と陰口叩かれてました。そう、フランス人って、陰口好きなんですよね。
まあとにかく、こちらのミキサー出力を会場PAに通すと、イベント進行に支障をきたすほどのホワイトノイズが乗ってしまうのだけれど、これを除去するには技術的な調整をしないといけないのに、それはさせて貰えない。仕方ないので、ホールの音響機器を諦め、夜のパーティ用にレンタルしたPAを持ち込んでどうにか凌いだのだけれど、今度はスピーチの同時通訳に音量バランス上の問題が発生、仕方なくこっそりホールのPAを勝手にいじって解決。
でも、全ての接続をこちらに持ってくるには時間的にアウト。マイクを通したスピーチだけが会場のスピーカー、演奏やBGMは持ち込みPAから再生という、奇妙な音響空間が出来上がってしまいました。
どうにかこうにか昼のイベントを乗り切り、PAをすぐ撤収して夜のイベント会場へ。これはグルノーブルの象徴的歴史遺跡で観光施設でもある、ラ・バスティーユで行われました。
何だかんだで、結局ホテルに戻ったのは真夜中過ぎ。その時私を送ってくれた同僚が車中、この会社の社長が如何に最低な人間であるかを突然語り出し、ちょっと驚きました。たしかにここの社長、非常に子供っぽくて、おまけにケチ。でも私、それは会社の経営者にとって必要な資質だと思っていたし、日本での初対面以来、悪い印象は全くなかったのです。
この時の彼の言葉をちゃんと理解するまでに、それから更に一年を待たなければなりませんでした。

10周年記念イベントは、フランスに来てから数週間後のことでしたが、この頃は同僚の協力もあって通勤用の自転車も手に入れ、ホテルから森の小道を通って美しいアルプスの景色を眺めながらの行ったり来たり。日本とは比べようもないくらい濃厚な味の野菜に果物、イタリアで食べて大好物となったアーティチョーク、安くて美味しいワイン、上質な肉類などに囲まれての、あっという間の一ヶ月間、でありました。仕事は忙しかったです。様々なシンセサイザーについての詳しい知識を持っていて、それらを自由に使いこなせるのが社内で私だけでしたから、それは当然といえば当然なのです。
帰国直前に、社長から再び、正式に来てくれるかを問われ「家族が一緒に来られるならば、私はOK」と答えました。帰国後も日本でここの仕事を継続することを約束して、好印象抱いたまま日本に戻ります。(続く)
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2013年07月21日

日本からフランスへ(その2)

 それは2009年の秋でした。フランスはローヌ・アルプ地方のイゼール県にあるそのシンセメーカーで、試験的に働くことになり、単身日本を発ってまずはパリに到着。このメーカーのスタッフが実はパリにもいて、当事開発中だった管楽器の物理モデルエミュレーターのテストとアドバイスを一日やってから、翌朝TGVでグルノーブルに向かうのですが、パリ・リヨン駅の構造をきちんと把握していなかったため、駅に着いてからウロウロしている間に発車時間がどんどん迫ってしまいました。駅ホールが二つあって、グルノーブル行きは正面口から左奥に入ったところの2番ホールだったのですが、そんなことは知る由もなく。
 ホテルを出る時、急ぐからとフリーの朝食を断った私に、TGVの時間聞いて、充分間に合うから食べて行けと強く薦めてくれたホテルの親父さんに従ったのと、途中の地下鉄で、どっち方面行きに乗っていいか判らず途方に暮れていた中国人女性に行き先案内したのも、結果として時間のロスになってしまいました。ま、後悔はしてませんが。
 ようやくホームを探し当て、目当てのTGVをホームに発見した時は、発車2分前。全速力で走って・・・なんと、列車は予定より1分早く発車してしまいました。早く出るか普通? ホームにいた駅員に英語で文句言ったら「満席だったから早く出たんじゃないかなー」ですと。
 出てしまったものは仕方ないしグルノーブル行きはその後しばらく無いのでとりあえずリヨンへ向かい、そこでローカル線に乗り換えることにしました。
 1番ホールから発車のリヨン行きTGVに乗り、一息ついたら検札がやって来ました。チケットを見せ、乗る予定の列車が予定時間より早く出たことを車掌に告げると「それは不運でしたねー。でもこのチケット(行き先の会社が送ってきたチケット)は変更不可のタイプです。新たに買い直してもらわないと行けませんね。90ユーロです」
 えっ!?・・・・・90ユーロ・・・・
「そんな金持ってませんが」私
「クレジットカードでもいいですよ」
「クレジットカードは、今月もう限度額いっぱいです(これは嘘です。月末だったので、咄嗟に出ましたw)」
「では今いくら持ってますか?」
「20ユーロです(本当)」
「じゃあそれでいいです」
???????????
 10ユーロ札二枚を車掌に渡す私。しばらくして車掌は戻ってきて、領収書と5ユーロ札を私に渡します。
「この5ユーロはなんですか?」と私。
「20ユーロ全部払ってしまったらその後困るでしょうから、5ユーロお返しします」
「ああどうもありがとうございます(!!!!?????)」
 私、多分この瞬間にフランスがとても好きになったかもしれません。文字通り、なんとも現金な話ですが・・・・
 リヨンを経由してどうにかグルノーブルにたどり着き、そこからもう一波乱あってようやく目的地へ。実はこの会社、2007年に一度訪れているのですが(たまたまツアーでフランスに来て、その時既に付き合いがあったので表敬訪問した)、プレハブの安っぽい社屋はそのまま、でも、2年前とは会社のメンバーがだいぶ入れ替わっていました(これ、伏線)。
 とりあえずその日は挨拶と、自分に充てがわれたオフィスの確認のみで、これからひと月ちょっとを過ごすことになる、その会社から然程遠くない場所にある、キッチン付きの滞在型ホテルへ案内され、その近くの、ヨーロッパでも最大規模のスーパー、カルフールで食材や酒を買い込み、その夜はそこのレストランでのんびりとディナーを楽しみ、翌日から人生初めての本格的海外一人暮らしが本格的に始まると言う緊張感も然程感じないまま、部屋でワイン飲んでフランス語に吹き替えられた「LOST」の違和感に苦笑していました。
 さて翌朝、徒歩で30分かかる距離ではありますが、まあとにかく初秋の美しいアルプスの景色を眺めながら歩くのは気持ちいいので、徒歩で会社に向かい、人生始めての会社勤めライフがいよいよスタートします。(以下次号)
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2013年06月22日

(前日譚)京都から沖縄へ

 フランスに来るまで、の続きを書く前に、前日譚としてそれまで住んでいた京都から何故沖縄へ移ったか、について書きます。結果論なのですが沖縄で数年暮らしたことが、フランスに来てから、こちらに適応するために非常に役に立ったような気がします。その理由は別の機会に。
 沖縄への引越しを決意した理由ですが、仕事のクライアント企業相手に訴訟を起こしたので、仕事を干されることがわかりきっており、それならばしがらみの少ない土地で仕切り直した方がいいのでは、という思惑もありましたが、なにより温かい土地で暮らしたいという願望が大きかったのです。
 その願望を抱くに至った最原因は、二年連続で病を患った事。
 最初は喉頭蓋炎。人間は食べ物を嚥下する時、それが気管に入らないよう自動的に蓋が閉じるようになっているんだそうで、この蓋を喉頭蓋、と呼びます。喉頭蓋炎は文字通りこの蓋が炎症を起こして気管を塞いでしまう病気です。
 最初は風邪でしたが扁桃腺炎を併発。そこからさらに咽頭炎へと拡大しました。その後発熱などの症状は治まったのですが、喉の奥に非常に強い痛みが残り、水を飲むのも痛くて辛いという日々が続きました。食事はさらなる苦痛。
 そんなある日、いきなり呼吸ができなくなりました。喉が完全にふさがり、息を吸うも吐くもかなわず、まるで見えない手に首を絞められたかのよう。幸い、恐らく十数秒後に気道が開き、呼吸が出来るようになりましたが、永遠に感じる十数秒でした。そのまま呼吸できなければ、あの世行きでしたから。
 呼吸回復後、慌てて最寄りの耳鼻科を受信したら「喉頭蓋炎です。発作が長引ければ窒息死します。紹介状書くので病院へ行って直ぐ入院して下さい」と言われました。初めて聞く病名と、命に関わる病気だということに、それはもうおののきましたよ。
 紹介状を持って京都市内のある病院へ自転車で(これ、伏線)。しかし診察した医者は「入院は必要ないでしょう。直ぐにステロイド剤の点滴しますから、今日を含めて五日間、通って下さい」と言います。
 普通ステロイド剤の点滴を5日も続けると、所謂ムーンフェイスと呼ばれる、顔が丸く膨らんだような状態になるらしいのですが、私、特異体質なのか何の変化もありませんでした。もっともこの頃は今と比べると体重もずいぶん重くて、デフォルトで顔が丸く膨らんでいたのですが。
 私の特異体質を上げると切りがありません。麻酔もあまり効かないし、傷の治りが異常に早く、いつも医者を気味悪がらせてます。切り落とした指先が綺麗に再生したこともありました。もしかして爬虫類のDNAが混ざっているのかも(笑)。
 通いの点滴治療を五日間務め上げ、はいもう大丈夫、と言われた二日後、以前より軽微だったけれど、再び発作。更に二日間追加で点滴。
 これでようやく収まりましたが、頭の中が多くの疑問符で充満しました。
 紹介状に入院が必要って書いてあるのに、症状を過小評価して通院で充分と判断した根拠はなに?
 自転車で通院中にもし発作が出ていたら、交通事故起こしていたかも知れなくない(先の伏線)?
 そもそも検査の結果について、説明なかったけど?
 説明受けて合意してっていう余裕ないほど緊急性高かったんだろうから、検査結果の説明なしにいきなり点滴解るけど、その後も治療方針や方法、ステロイドの副作用などについて何も説明なかったけど、いいのか?
 体質のおかげで、ムーンフェイスにならなかったから良かったけど、予備知識無しにいきなり顔膨らんだら、驚きますけど、普通。
 要するに藪医者だったのですね。ちょっと美人の女医さんでしたが。
 次なる病は喉頭蓋炎の翌年のことです。上顎の左の奥歯が浮いてきて物を噛む度に痛いので、最寄りの歯科医に行きました。ここ、あまり腕が良くないのか、いつも空いていて予約なしで診てくれるのです(笑)。
 治療は奥歯を削って噛み合わせを調整するだけだったのですが、今思えばこれが副鼻腔炎の始まりだったのかもしれません。この時X線写真を撮ったかどうか記憶がありませんが。もし撮っていれば、或いは炎症に気づいたかも。
 痛みは去ったのですが、その後しばらくして、顔の左半分が俯いた瞬間に強く痛む、と言う症状に見舞われました。同時に左の鼻からは大量の膿が。
 蓄膿症になった?と思い、昨年の例があるので、最寄りの耳鼻科ではなく、少し離れているけど名医と評判の高い大島耳鼻科を予約し、そこへ。まあ京都市内は東西北の大路内であれば、多少遠くとも自転車移動圏内なので、行くのはそれほど苦にはなりません。
 そこでの診断は急性副鼻腔炎。しかも、医師の言葉を借りれば「猛烈」な炎症だそうです。まずは抗生剤治療。これで収まらなければ外科手術。炎症は視神経に達する勢いで、そうなれば左目の視力を失う怖れがあるから、そうなる前に
外科手術が必要、とのこと。私、生まれつき右目が殆ど見えないので、これは一大事です。
 ここで気づいたのですが、上顎の奥歯が浮いたのが、炎症の始まりだったのかも知れません。原因もなく勝手に歯が浮いてくる訳ありませんからね。しかも痛いのは物を噛んだ時だけで、歯肉炎など歯周病なら常時痛いし、見ただけで直ぐに解るはずですから。だから歯の治療の時、副鼻腔の炎症に気づいていれば、ここまで悪化させずに済んだのでは、と思うのです。
 それはともかく、投薬の効果もなく、炎症はどんどん拡大し、常に鼻を押さえていないと膿がダラダラ流れ続け、もうこれは手術が必要、となりました。
 そこの医師一押しの、副鼻腔炎の手術では全国一と誉高い京都第二赤十字病院は満床だったので、では次はここと紹介されたのは、去年と同じあの病院。診察室で私を待っていたのは、去年と同じちょっぴり美人の、あの。因果はめぐる糸車。
 彼女の口から出た言葉は「入院も手術も必要ないでしょう」
 元の医院へ取って返し「先生、別の病院を紹介して下さい、実は斯斯然然」と去年のエピソードを紹介。
 それならばと、満床だった第一候補へ電話をかけ直し、半ば無理やりねじ込んでくれました。その先生そこの病院出身で、融通効かせてくれる後輩がいたのですね。
 副鼻腔炎の手術、いつもの様に麻酔薬追加で無事終了し、ついでに鼻中隔の湾曲も直してもらって(ノミとハンマーで削る荒療治)、さすが全国一なだけあって、最も痛いといわれるガーゼの取り出しも無痛でした。私をここにねじ込んでくれた大島先生、術後に電話で容態を訊いてくれただけでなく、直接見舞いにも来てくれました。なんて良い医者でしょう。
 しかしなんでこんな事になったのか。ある人はこう言います。京都は山に囲まれた盆地であるがゆえ、独自の常在菌が沢山いる。地元民は免疫があるが、外来者はこれにやられる。またある人はこう言います。京都は怨念がこもっている土地で魑魅魍魎が多い、故に外来者で敏感な人は攻撃を受ける。
 喉頭蓋炎で息が止まった時は、悪霊に首でも締められたかと思いました。今でも風邪で喉が痛む度に、あの時の恐怖が蘇ります。もしかするとこの時の細菌やウイルスがまだ残っていて、何かのきっかけで活動再開したのかもしれませんね。
 それはともかく、夏冬のあの極端な気候の変化に体が馴染むのは大変だと思います。冬は北国の人が寒がり、夏は南国の人が暑がる京都。私、その暑い夏はどうということなかったのですが、冬はこたえました。血行が悪くなって目眩がするほどでしたから。もしかするとこれも、免疫力を下げる遠因だったかも。
 そんなこんなも絡み、二年に渡る羅病の後、温かい南国へ引っ越そうと決意するに至ったのです。でも、いよいよ京都を離れることになって空港へ向かうバスの中で、ものすごく後ろ髪ひかれ、涙が出そうになりました。それほど魅力的な街でもあります。京都に住む、ある友達(女性)は「頭が良くてスタイルもいい絶世の美女、だけど性格が極端に悪い、こういう女に引っかかると男は中々離れられないでしょ? 京都ってそんな街」
 言い得て妙。
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2013年06月16日

日本からフランスへ(その1)

 何故日本を離れ、フランスへ引っ越したか、その経緯を書きます。 そもそもの発端はこの出来事です。
 日本という国、個人が大企業や政府など、巨大組織に逆らった場合、個人が圧倒的に不利です。私の裁判も、和解で決着しましたが、よくアメリカの裁判であるような、ちょっとした被害に何億っていう賠償金を貰ったわけではありません。裁判に費やした時間と労力考えたら、完全にマイナスです。私が著作権問題で大企業相手に裁判起こしたよって、外国の友人達に伝えた時、一様に「おめでとう!君はもう一生働かなくていいね!」と言われました。でもそれは大きな間違い。
 さて、この違いはどこから?
 それは「懲罰的損害賠償制度」の有無。
 アメリカの裁判で被害者である個人に対し、腰が抜けるほどの高額賠償金が支払われるのは、この制度があるから。
 思いっきり簡単にわかりやすく例えると、被害者が受けたダメージを企業レベルに拡大して賠償させる、というもの。例えば、年収300万の人が、100万円相当の被害を受けたら、被害を与えた企業に、それに見合う割合のダメージになるような損害賠償支払いを命じる、って言うことです。年商30億なら10億とか。だからファーストフード店でやけどしただけで数億。
 要は弱者を強者のレベルまで仮想的に引き上げてイーブンにする方式なのです。
 日本は、これがない。だから100万円のダメージなら100万円しか賠償されない。しかも100万円で請求起こすと、大体大幅に減額されるので、あらかじめ多めに見積もって損害賠償請求します。変なの。
 でも実際は、私のようなフリーの作曲家が、クライアント企業に例えば500万円の損害賠償請求起こして100万円で決着したら、これはもう生きていけないくらいのダメージがこちらに残ります。大企業にとって100万円の損害賠償なんて、屁でもありませんが。
 何故100万円もらってダメージが残るかというと、仕事干されるからです。理由はどうあれ、日本ではクライアント様に逆らった下請け虫けら作曲家は許されないのです。私一応、権威ある学者さん監修で編纂された「日本の作曲家」という人名辞典に収録された作曲家ですが、そんなもの吹けば飛ぶようなステイタス。実際この裁判起こしてから、私は今日に至るまで、それまでメインの収入源だったCM音楽の作曲依頼、ゼロ。勿論これは想定内でしたけどね。全くなんちゅう社会文化。出る杭は打たれるどころじゃないですよ。体制に逆らうもの、よってたかって袋叩き、です。同業者からですら、バッシング受けましたから。余計なことしてくれるな、とか。
 聞く所によれば、様々なシーンで私の名前が出ると、広告代理店の人の顔色が変わる、って言うこと、あったそうです。キャリア的立場的に、避けて通れない裁判ではあったけれど、自分の名誉以外に、日本の作曲家達が置かれている不利な状況が少しでも変われば、という願いもあって始めた裁判でした。賠償金目当てなら、どうにかしてアメリカで訴訟起こします(^_^;)
 あれ以降、作曲家の処遇、多少改善された部分もあるのかもしれませんが、自分の作品が、その後どんな使い方をされようが一切文句は言わないと、作曲家に仕事引き受ける時念書を書かせる音楽プロダクションも出たと聞きます。糞でも食らいやがれ、あ、失礼、下品なので書き直します。大便でもお召し上がりください。
 その裁判おこして直ぐ、私は沖縄に引っ越しました。これにも様々な理由が複雑に絡み合っています。大企業相手に裁判起こすと、狙われるから、できるだけ遠くへ引っ越したほうがいいというアドバイスも数人の方から貰いました。でも、それが主な理由ではありません。当事住んでいた京都で、二年続けて大病を患ったのです。最初は喉頭蓋炎という、下手すると死に至る恐ろしい病気。二年目は視力を失うかも知れなかったほどの重篤な急性副鼻腔炎。この二つの病気に関しても一冊本が書けるくらい、面白いエピソードあります。ある病院の、とんでもないヤブ医者のお陰です。とにかく私、京都の夏の暑さには耐えられても、冬の寒さにはどうしても耐えられなかったのです。冬になると血行悪くなって目眩してたし。
 まあとにかく、温かい沖縄に引っ越したのですよ。沖縄では、CMと関係のない、劇団のミュージカル音楽とか、楽器メーカーの仕事とか、カレーの通販とか、自主ライブとか、そんな事やってました。沖縄は沖縄で、あまりの湿度の高さに、自宅にいて何もしていないのに、のぼせてふらつく、なんて事もありましたが。高湿度ゆえの関節痛にも悩まされました。でも健康的に痩せましたよ。
 沖縄で子供が生まれて、今のままではこの子が成人するまで、食べさせてやれないかもしれない、という不安が頭をもたげてきたのですね。景気はどんどん悪くなるし、あなたのような人にこそ仕事をお願いしたい、と言ってくれた侠気のある企業は潰れてしまうし。身内や友人が若くしてバタバタと亡くなって、しかもその全ての死因が癌か自殺かという、非常に辛かった時期です。たった一人の弟が急逝したという知らせを受けた直後、サンプラザ中野氏が我が家を訪れたのですが、彼の剃り上がった頭を見て、翌日自分もツルリンと頭を剃りあげたのもこの頃でした。
 そんな中、かねてより付き合いのあったフランスのシンセメーカーで、専属サウンドデザイナーが辞めた、と聞いて、その会社の社長に「◯◯辞めたんだって? サウンドデザイナーいないと困るだろ? 俺が行こうか?」ってメールしたんです。すると「いいね、じゃ、試験的に2ヶ月ほど来てくれ」という返事が。要はオーディションですが、これがきっかけで私、フランスに移住することになったんですよ。(以下次号)
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