2010年の11月9日に、就労VISAが貼り付けられたパスポートと共にフランスにおよそ4ヶ月ぶりの再入国を果たすのですが、到着後ちょっと面倒なことが発生。
会社が契約してくれたアパートがあるのだけれど、未だ鍵を受け取っていなかったので、このままグルノーブルに行ってもアパートには入れません。鍵は会社にありますが、到着が夜遅かったのでその日のうちの受取は不可能。
仲の良い同僚に泊めてくれるよう電話をしたいのだけれど、前回こちらで購入した携帯電話がバッテリー切れ。間抜けなことに充電器は置いていった荷物の中。USBの充電用ケーブルがあったので、これをMacBook proに繋いで充電していたつもりだったのだけれど、何故か断線していたらしく充電出来ていません。
バッテリー残量のない携帯手にして困った顔をしている私を見て、荷物受取場所の隣にいた日本人女性が親切にも電話を貸してくれました。発信ができるほどの残量はなかったけど、かろうじて電話帳は読みだすことが出来たので同僚に電話。泊めてもらえることを確認して、グルノーブル行きのTGVに乗りました。
一夜明けて会社へ行き、挨拶だけして鍵を受け取りアパートへ。
ここは、研究者の日本人家庭が3代ほどに渡って住んでいたアパートで、家具その他そっくり引き継いだので、生活必需品はひと通り揃っています。日本からの荷物は船便なので到着は先の先。
取り敢えず何があるかを確認し、後は買い物に出て食材と酒を買い、なにか作って食べて飲んで初日が終わります。折りたたみベッドの下の物入れから大量の処方薬が出てきたのですが、導眠剤と精神安定剤が沢山あって苦笑。海外生活がストレスだった人がいたのでしょうね。
翌日から出社するのですが、最初の仕事は会社との契約書へのサインです。これを無事に終えた直後、私は数々の驚愕に見舞われることになります。
まずは就労時間が変わっていました。前回来たときは大体9時頃から17時頃までだったのが、18時に延長されています。後で判ったのですが、当時のサルコジ政権が週最長40時間までの労働(週35時間プラス後時間の残業)を認めたために、社長はこれをデフォルトとして組み込んでしまったのです。拘束は9時間ですが、昼休みを就労時間から外して実労8時間。その他コーヒーブレイクも実労から除外すると、勝手にルールを決めてしまったのです。厳密には労働法に違反しているらしいのですが、何故こんなことが出来たのか、そのからくりは未だよく解りません。
まあでもフランス人は平気で2時間近い昼休憩とるし、それぞれが専用オフィスを持つので、リラックスして仕事できることには変わらないので、これは然程苦痛ではありませんでした。時期が晩秋だったので、起きる時間には空が未だ薄暗く、帰る頃にはもう真っ暗と言う状態には、なかなか慣れることが出来ませんでしたが。3年たった今でも慣れませんね、これは。
しかしこんなのはほんの序の口、契約前には予想もしなかった状況が私を襲います。
まずはアパート。契約は11月1日からですが居住開始は11月10日、そして就労開始は11月11日なので、この10日分を最初の給料から差し引くと社長が言い出します。(タコを連想させる風貌なので以降タコ社長。怒ると真っ赤になって余計にタコ感が増す)
以前から様々な局面でケチな奴だとは感じてていたのですが、まさかここまでとは(後に、もっと凄いと判明します)。
まあ、会社の社長というのは基本、ケチでないと務まらない場合が多いようですね。有能な右腕がいる場合は、太っ腹の方が良いみたいですが。このタコ社長、子供で小心者でケチ。社長としての資質は、充分です(笑)
まあこれについては、私に好意的な経理担当者がうやむやにしてくれたのですが、今度は引越し費用。契約前の話では、引越し費用の半分くらいは会社が持ってくれる筈だったのが、最大で1割くらいしか出せないと言い出します。話が違うと文句を言っても「普通のフランス人と同じ条件だ。遠くから来た場合でも基本引越し費用は自己負担。外国人だからといって特別扱いは出来ない」と言います。
腹が立ちましたが、合意が文書で残っているわけでもないので、ここは引き下がりましたが、話が違うのはこれだけではありませんでした。渡仏前には、家族が一日でも早く合流できるよう最大限の努力をすると言っていたのが、契約後は、出来ることは何もない。一年半後でないと家族ヴィザは出ない。で終わり。実際は「長期訪問ヴィザ」というものがあり、それで切り抜けられたのですが、そこまで調査していなかったのですね。
更に、家賃は会社の経費として支払われるので、合計金額は変わらないのだけれど、実質私の手取り分は当初の予定より減ります。これが何を意味するかというと、会社は私の家賃を経費に参入できる上、雇用税や社会保障費を節約できます。
つまり、まんまと節税に利用されたわけです。私に特にデメリットはありませんが。
この時から家族が渡仏するまで、可愛い盛りの二歳の娘と離れて、私は枕を濡らさぬ夜がないような生活を5ヶ月間、耐えることになります。正直、一人暮らしは気楽でしたけど、あの年齢の子供との時間って毎日が発見の連続で、宝石のように貴重だと思うのですが、これを失うのが、とにかく辛かったですね。
しばらくして同僚達に、タコ社長の契約後の手のひら返しについて話したら、彼等の口からは驚くべき事実が次から次へと明らかに。
この会社、日本で言うブラック企業だったのです。勿論過労死者が出るほどではありませんが、フランスではもう充分にブラックです。特にEU圏外からの外国人社員は、一様に節税と言うより脱税に利用されていました。
その驚くべき詳細については、次回以降。
2013年10月23日
2013年10月17日
日本からフランスへ(その4)
2009年の秋、試験的にフランスのシンセメーカーでひと月ちょっと仕事をして帰国し、しばらくすると、その会社の社長から「来年の4月から3ヶ月間、家族と一緒に招待します。その際、正式にフランスで就業するための手続きなどやりましょう」と言う連絡が来た。
とうとうヨーロッパでの就職、移住が現実のものになったのですが、渡航直前に娘が入院で延期(変更利かない格安チケットだったため買い直すハメに…)退院して出発のため空港に行ったら、アイスランドの火山の影響で飛行機が飛ばない。いつ飛ぶかわからない状態…もう、呪われていると思いました。私を日本から脱出させないために、見えない手が私を後ろから羽交い絞めにしている、と。
でも、ここで一計を案じ、出発が大幅に遅れたため現地での仕事の期間も不明になった。いつ帰国できるか読めないので帰りの便をキャンセルして払い戻してくれ、と航空会社に掛けあってみました。すると答えはOK。
最初のキャンセルで家族三人一往復分無駄にしてしまいましたが、この払い戻しが出来たため、次回フランスに渡るとき、向こうで買った往復の帰りのチケットが使えるのです。そうでない場合、日本からフランスへ高額な片道チケットを買うか、一年オープンの往復チケットを買わねばなりませんが、そうなると毎年日本とフランスを往復し続けるか、片道分をキャンセルするか捨てるかしないとならないのですね。いずれにせよ、飛行機のチケット、殆どの場合日本で買うより海外で買ったほうが安いのでこれは幸いでした。でも、ここで一計を案じ、出発が大幅に遅れたため現地での仕事の期間も不明になった。いつ帰国できるか読めないので帰りの便をキャンセルして払い戻してくれ、と航空会社に掛けあってみました。すると答えはOK。
どうにかこうにか5月上旬にフランスに辿り着き、会社が用意してくれた前回と同じ、グルノーブルに隣接するメイラン市にある滞在型ホテルでの生活が始まります。部屋はちょっと狭いけど、ひと通りなんでも揃っていて、まずまずの快適さ。
娘はまだ2歳と小さいので異なる環境でも直ぐに慣れましたが、海外で暮らした経験のない妻にとっては、最初はかなり大変だったようですが、美しい自然や安くて美味しい食材にワイン、散歩に出る公園で顔見知りが出来たことなどもあり、徐々に馴染んでくれたようです。妻がフランス移住に不同意だと、これはもう後で大変なことになるので、ちょっと安心(実は一旦日本に戻ってからちょっと大変なことになるのですけど)。
会社は去年居たメンバーが2名ほどいなくなっていましたが、インターンも数名いて、昨年よりは賑やかでした。仕事も去年と変わらずやりやすく、ゆる〜っと出社して5時過ぎには帰り、ゆっくり夕食を作って、ワインを楽しみ、週末は周辺へ観光に出かけるという日本に比べると遥かに優雅な生活。
グルノーブルの日仏交流協会にも紹介してもらい、未だ正式な住所がないのに特別な計らいで会員になり、娘は日本語補習校に併設されていた、幼児クラスに毎週通います。幸い、ホテルから歩いていける距離。娘はまだ2歳と小さいので異なる環境でも直ぐに慣れましたが、海外で暮らした経験のない妻にとっては、最初はかなり大変だったようですが、美しい自然や安くて美味しい食材にワイン、散歩に出る公園で顔見知りが出来たことなどもあり、徐々に馴染んでくれたようです。妻がフランス移住に不同意だと、これはもう後で大変なことになるので、ちょっと安心(実は一旦日本に戻ってからちょっと大変なことになるのですけど)。
会社は去年居たメンバーが2名ほどいなくなっていましたが、インターンも数名いて、昨年よりは賑やかでした。仕事も去年と変わらずやりやすく、ゆる〜っと出社して5時過ぎには帰り、ゆっくり夕食を作って、ワインを楽しみ、週末は周辺へ観光に出かけるという日本に比べると遥かに優雅な生活。
この期間中に、現在世界で大人気の、小型アナログシンセの企画が始まり、私はもう、自分が欲しいと思うシンセを作りたかったので、規模と価格帯的には考えられないような仕様を提案しましたが、そのほとんどは幸いなことに実装されています。
また、このメーカーのメインプロダクトであるヴァーチャル・ヴィンテージ・シンセの為に、日本の知り合いから、ある大型のシンセサイザーを借り受ける算段もするのですが、これが後に大変ややこしい事態を生むことになるとは、当事は夢にも思いませんでした。
滞在中は大きなトラブルもなく、必要な書類を揃えて、就労ヴィザ申請のため、7月中旬に家族ともども一旦帰国します。それまで住んでいた沖縄はもう、家賃払うのももったいないし、全員で沖縄に戻って再渡仏するのも億劫なので、妻は実家に、私は原則流浪という生活が始まります。予定では3ヶ月後にはフランスに戻って正式に就業する事になっていたので、まあ、なんとかなるかと。
また、このメーカーのメインプロダクトであるヴァーチャル・ヴィンテージ・シンセの為に、日本の知り合いから、ある大型のシンセサイザーを借り受ける算段もするのですが、これが後に大変ややこしい事態を生むことになるとは、当事は夢にも思いませんでした。
滞在中は大きなトラブルもなく、必要な書類を揃えて、就労ヴィザ申請のため、7月中旬に家族ともども一旦帰国します。それまで住んでいた沖縄はもう、家賃払うのももったいないし、全員で沖縄に戻って再渡仏するのも億劫なので、妻は実家に、私は原則流浪という生活が始まります。予定では3ヶ月後にはフランスに戻って正式に就業する事になっていたので、まあ、なんとかなるかと。
しかし実際にはフランスは8月中、役所の業務が完全にストップしてしまうので私の就労ヴィザは4ヶ月後の11月になってようやく下りたのです。あとで判ったことですが、4ヶ月で降りたのはむしろ奇跡的に早かったそうです。今となっては頷けますけどね。うひゃー。
私の就労ヴィザは出ましたが、なんと家族の分が出ません。労働局はOKだったそうなのですが、移民局がダメだと。家族のヴィザを取るには私がまず単身で1年半以上働くか、毎月手取りで4500ユーロ以上の報酬を受け取るか、どちらかの条件をクリアしないといけないんだそうです。外国人雇うなら前もって調べておけよそのくらい、と言いたいところですが、時すでに遅し。4500ユーロと言うのは、普通ちょっと有り得ない報酬です。その会社の社長でもそんなに取っているかどうかって言う金額です。通常手取り額1000ユーロ台で2000に届く人少ないって言う状況です。
家族の分は来てから相談しよう、とにかくまずは一人でも来てくれ、と言うので家族を妻の実家に残し、単身渡仏したのが2010年の11月9日でした。
それから家族と再合流するまで、実に5ヶ月待たねばなりませんでした。長い長い5ヶ月間。
私の就労ヴィザは出ましたが、なんと家族の分が出ません。労働局はOKだったそうなのですが、移民局がダメだと。家族のヴィザを取るには私がまず単身で1年半以上働くか、毎月手取りで4500ユーロ以上の報酬を受け取るか、どちらかの条件をクリアしないといけないんだそうです。外国人雇うなら前もって調べておけよそのくらい、と言いたいところですが、時すでに遅し。4500ユーロと言うのは、普通ちょっと有り得ない報酬です。その会社の社長でもそんなに取っているかどうかって言う金額です。通常手取り額1000ユーロ台で2000に届く人少ないって言う状況です。
家族の分は来てから相談しよう、とにかくまずは一人でも来てくれ、と言うので家族を妻の実家に残し、単身渡仏したのが2010年の11月9日でした。
それから家族と再合流するまで、実に5ヶ月待たねばなりませんでした。長い長い5ヶ月間。
To be continued......
2013年10月16日
日本ライブツアー報告
3年ぶりの日本国内ツアー、無事終了しました。集計が済むまでは、ツアーは終わっていないと思い、帰仏後も報告は控えていたので、報告が遅くなりました。
20日のリハーサルから始まって、東京東京山形横浜東京四日市という怒涛の6連。福岡、広島、兵庫、大阪と続き、コンサート千秋楽の大阪では、ついに力尽きて終演後一滴も飲めず。。。(T_T)
以前よりテルミン奏者としては珍しく、即興に重点を置いた演奏スタイルだったのですが、今回は9割以上が即興と言う内容でした。また生まれた街中目黒、青春時代を主に過ごした伊勢佐木町界隈で演奏出来たのは幸せでした。中目黒はちょっと張り切り過ぎた感がありますが。横浜は程よくリラックスできて、もっとも上質な演奏が出来たような気がします。
コンサート千秋楽翌日は飛行機で東京へ向かい7日、8日と両国にある美学校の教室で二夜連続講義。この時はもう、講義するの無理なんじゃないかと思う程直前までぐったりでしたが、人前に出るとあらあら不思議、どこからともなく力がみなぎり、疲労などどこへやら、で快調に二日間を乗り切り(昼間は死んでましたが)、日本滞在最終日は子供のために色々買おうと思っていたのが、もう体が全く動かず、デイユースで取ったホテルで寝たきり。
そして羽田空港では、全く非現実的な、機内持ち込み7キロ制限に引っかかり大立ち回り。
上着を着てそのポケットに入れたものは計量の対象にならず、後からバッグに詰めなおせばOKって一体どう言う事?
非論理的なこと甚だしい。現実的でないと解っていながら「決まりだから」と言い張る地上職員。なんか哀れでさえありました。
日本の皆様、また来年お会いしましょう。
まずは皆様に御礼。
日に日に重量を増す荷物を抱え(物が増えた以外に、日本の凄まじい湿気を衣類が吸って重量が増した)、主に鉄道の駅で待ち受ける階段に苦戦し、移動日をオフ日にカウントして日程を組んでしまったことに後悔しつつも、どうにか最後まで、体調をくずすことなく完遂できたのは、多くの皆様の温かい励ましと支援、そしてヘパリーゼとウコンのおかげ、と思います。コンサートを主催してくださった皆様、開催をサポートしてくださった皆様、会場に足を運んでくださった皆様、有形無形のバックアップをしてくださった皆様。共演してくださった皆様。本当にありがとうございました。心よりの感謝を捧げます。
20日のリハーサルから始まって、東京東京山形横浜東京四日市という怒涛の6連。福岡、広島、兵庫、大阪と続き、コンサート千秋楽の大阪では、ついに力尽きて終演後一滴も飲めず。。。(T_T)
以前よりテルミン奏者としては珍しく、即興に重点を置いた演奏スタイルだったのですが、今回は9割以上が即興と言う内容でした。また生まれた街中目黒、青春時代を主に過ごした伊勢佐木町界隈で演奏出来たのは幸せでした。中目黒はちょっと張り切り過ぎた感がありますが。横浜は程よくリラックスできて、もっとも上質な演奏が出来たような気がします。
コンサート千秋楽翌日は飛行機で東京へ向かい7日、8日と両国にある美学校の教室で二夜連続講義。この時はもう、講義するの無理なんじゃないかと思う程直前までぐったりでしたが、人前に出るとあらあら不思議、どこからともなく力がみなぎり、疲労などどこへやら、で快調に二日間を乗り切り(昼間は死んでましたが)、日本滞在最終日は子供のために色々買おうと思っていたのが、もう体が全く動かず、デイユースで取ったホテルで寝たきり。
そして羽田空港では、全く非現実的な、機内持ち込み7キロ制限に引っかかり大立ち回り。
上着を着てそのポケットに入れたものは計量の対象にならず、後からバッグに詰めなおせばOKって一体どう言う事?
非論理的なこと甚だしい。現実的でないと解っていながら「決まりだから」と言い張る地上職員。なんか哀れでさえありました。
無事パリに戻り、数日滞在して舞踏家の有科珠々さんとお会いして、来年春に日本で公演を行おう、と言う話になりました。
東京は確実ですが、他に京都などが候補に上がっています。
東京は確実ですが、他に京都などが候補に上がっています。
日本の皆様、また来年お会いしましょう。