2013年06月30日

プロとして最初のレコーディング

 さっき、ある先輩ミュージシャンとのチャットでのやりとりがきっかけで、長いこと忘却の彼方にあった、プロ・デビューして最初のレコーディングのことを思い出したので書く。これは今まで、多分誰にも話していない。完全に忘れていた記憶だったので。 セミ・プロ時代もレコーディングスタジオを使った経験はあるけれど、その時スタジオ内には自分たち以外は、スタジオ付きのエンジニアしかおらず、実に気楽なもの。しかし、メジャーレーベルのレコーディングだと、プロデューサーやディレクターなど様々なヒエラルキー上の「上位者」が大勢いた。まずこれがプレッシャー。
 私の場合は、契約したプロダクションの社長が当事ヒットメーカーとして名を馳せた作曲家で、プロデューサーでもあり、アレンジャーでもあるという、当事の私から見れば雲上人に近い存在。他のメンバーがブースで一緒に演奏するのに対し、シンセ担当の私は、一人この大御所が鎮座する席の真ん前で、後から弾かねばならなかった。これは当事まだ21歳だった私はには、プレッシャーは相当なもの。生意気盛りとはいえ。正直ブースで演奏できる立場でいたかった。
 しかも。シンセのオペレーターとしてやってきたのが、松武秀樹さん。YMOで巨大なモジュラーシンセを操っていた、あの方。で、スタジオに持ち込まれたのは大量の巨大フライトケース群。おおあのデカイのはMoog IIIcに違いない。おおこれはOberheim 8voiceだろう。ああこれはもしかしてPolymoog....しかもケースにアルファベットで、HOSONOとかSAKAMOTOと書かれている。要するにYMOの機材全てが持ち込まれたわけ。これで平静でいられる訳ないよね。それまで、YAMAHA CS-30とRoland Jupiter-4しか持ったことのないシンセ好きの若干21歳の若僧だから、もう大興奮。
 ところがどっこい、当初の予定ではシンセを重ねてオーケストラサウンドを構築する予定だったのが、生弦入れたら、もうお腹いっぱいになっちゃって、それ以上何入れる必要あるの?的な状態。
 この大御所プロデューサー、シンセに関しては現場のひらめきで即興的にアレンジするタイプだったのね。
 それに加えて、24トラックをほぼ使い切った状態で、空きトラックも少ない。
 結局、ポリシンセ1台で、弦の厚み増強にシンセを入れる、だけ、になっっちゃった。「君、ライブはこの音をシンセだけで再現しなきゃダメだぞ」というミッション・インポッシブルな注文付きで。
 で、目の前に置かれたのはSAKAMOTOと書かれたフライトケースから出てきたプロフェット5。当事の私には、逆立ちしたって買える代物じゃござんせん。しかもYMO御用機材。ケースにはSAKAMOTO。目の前には大御所、隣には松武さん。これで緊張するなてえ方がどうかしてるぜべらぼうめ。
 YMO機材をフルに使っての多重録音はフイになったけど、なんかもう心ここにあらずで、演奏中の指の震えを必死で止めようとした事しか覚えていない。あれがあったからその後図太くなっちゃったんだと思うけど。
 松武さんが2VCOのプロフェット一台でどうしてあんなに厚みのあるストリングスサウンドが作れたか理解したのも、それから数年後のこと。それからおよそ2年後には、自分の運命を左右するDX7と出会うことになるなど、まだ想像もしていないあの時。
 それ以来しばらくプロフェット5使ってたけど(事務所がレンタル)、どうも馴染めなくて、途中からJupiter-8に変えたけどこれは相性良かったよ。今でも当事のアナログ・ポリ・シンセではJupiter-8とCS80が最高峰と思う。
 余談だけど、そのちょっと前、私はCS80の家庭教師という珍しいアルバイトを放送局の報道アシスタントのバイトと並行してやってた。その時の生徒の親友が坂本龍一さんのお弟子さんという不思議な縁。
 放送局バイト時代も、ひょんなきっかけから、その局のラジオニュース番組のテーマ曲作るという巡り合わせがあった。他のバイト仲間から、同じバイトなのになんであいつだけ、とものすごく妬まれた、と言う話を後から聞いたけどまあ、放送局にバイトに来る連中は基本的に、狙ってるからね、その世界を。無理もない話し。自分が幸運だっただけ。
 なんか、ひとつ思い出すと、芋づる式にどんどん記憶が蘇るなぁ。
posted by ubuman at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記