2013年06月16日

余り食材で本格中華炒麺もどき

 焼きそばにオタフクソースが使われるようになって、私はソース焼きそばを外食で注文しなくなりました。甘ったるくて、ベタベタして気持ち悪いんだもの。あのソースは広島式お好み焼きに使ってこそ本領発揮だと思う私は頑固親父。
 さて、私は副業に料理をやっていたこともあるほどの料理好きです。かなり本格的なインド料理やイタリアンを作るので、本物の材料に拘る人と思われがちですが、元々は、そこにある材料で料理を創作するのが大好きなのです。ライブにおいて即興が好きなのと一緒。
 今日紹介するのは、余った食材で作る、本格中華炒麺のもどき、です。今回はキャベツ、大根、人参、キュウリ、ナス、ポワロ葱を使いましたが、前に作った時は、ズッキーニ、カボチャ、玉ねぎ、サヤインゲンでした。本当に、なんでもいいんです。

 材料:
  1. 余り野菜。余り肉または冷凍のシーフードミックス、ツナ缶、塩ジャケの残りなど、なんでも。今回はフランスなら大抵どこでも売っている、ラルドンという塩漬け豚肉の余りを使いました。味のついていない具材の場合は塩コショウで下味をつけておきましょう。
  2. 中華麺。こちらでは美味しい半生半乾の中華麺(ものすごく長いので切らないといけない)を、さっと茹でてから油を振りまぶして使っていますが、日本では中華街にでも行かない限り、売っていないと思うので、普通の焼きそば用の蒸し麺でいいと思います。細麺推奨。よくある極太麺やチャンポン麺は避けて下さい。あれで作ると別物になっちゃいます。ラーメン用の麺でも代用出来ますが、九州の低加水麺もやっぱり避けて下さい。食感が全然違うので。生麺を茹でる場合は茹で過ぎには十分注意しましょう。また茹で汁は捨てずにとっておいて下さい。後で食器や調理器具を洗うとき、使えます。中華麺や野菜の茹で汁って、油汚れをよく落とすんですよ。中華麺はカン水のアルカリですね、多分。野菜もほうれん草とか、アクの強いものほど効きます。
  3. 調味料:酒(紹興酒か日本酒、ワインでもいいと思う)、中華ペースト若しくは各種ブイヨン、各種中華調味料、醤油。
  4. 塩、胡椒、油(なんでも良いが、キャノーラ油やひまわり油の場合、ごま油を混ぜると風味が出て良い。オリーブオイル非推奨w 私はグレープシードオイルにごま油をブレンド)

 調理手順(3〜4人分):
  1. 具材となる野菜を細切りにする。ニンニクと生姜はみじん切りにします。
  2. 合わせ調味料を作る。カップに酒、又は水(4人分で50ccくらい。紹興酒があればベスト、日本酒でも可。酒がなければ水でも)に中華スープペースト(皇膳房の「味一番」推奨。}または各種ブイヨン、または顆粒鶏ガラスープ、豆板醤、甜麺醤、豆鼓、XO醤などの中華調味料を合計で小さじ二杯程度入れ、さらに醤油を小さじ半分程度混ぜる。この時点で調味料の味が濃すぎると、後に戻れくなるので、薄めに味をつけましょう。醤系に偏ると色が濃くなって見た目ソース焼きそばみたいになるので、これもほどほどに。
    中華調味料がない場合、塩と醤油少々だけでも全く構いません。
  3. フライパンに多めの油を入れ、野菜と肉類を中火で炒める。軽く塩コショウ。シーフードなどの場合は火が通り過ぎないよう、後から入れましょう。半分ほど火が通った所で、ニンニクと生姜の微塵切りを入れて全体に火を通す。火が通ったらボールにざるを重ねた上にあけ、油を切り、切った油はフライパンに戻す。
  4. 人数分の麺を用意する。
  5. フライパンにもし油がたりなければ追加して十分に熱し(油が足りないと本格中華っぽくならないので大胆に)、麺を全量一気に放り込む。放り込んだら何もせず、中火で焼く。時々持ち上げて様子を見て、最下層がパリパリになったらひっくり返して反対側も焼く。
  6. 反対側もパリパリになったら、弱火にして調味液を回しかけ、炒めた野菜を入れ、野菜が麺に程よく絡むまで混ぜて完成。
もし味が足りないと思ったら、酢をかけることをお勧めします。香醋ならなおよし、です。
ポイントは油を大胆に使うことと、麺をパリっとするまで、よく焼くこと(麺を入れて直ぐ動かすと、テフロン加工ではないフライパンの場合、逆にくっつきます)、調味料と具材を入れ戻したら弱火にして素早く混ぜることです。

FriedNoodles.jpg
posted by ubuman at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 料理レシピ

日本からフランスへ(その1)

 何故日本を離れ、フランスへ引っ越したか、その経緯を書きます。 そもそもの発端はこの出来事です。
 日本という国、個人が大企業や政府など、巨大組織に逆らった場合、個人が圧倒的に不利です。私の裁判も、和解で決着しましたが、よくアメリカの裁判であるような、ちょっとした被害に何億っていう賠償金を貰ったわけではありません。裁判に費やした時間と労力考えたら、完全にマイナスです。私が著作権問題で大企業相手に裁判起こしたよって、外国の友人達に伝えた時、一様に「おめでとう!君はもう一生働かなくていいね!」と言われました。でもそれは大きな間違い。
 さて、この違いはどこから?
 それは「懲罰的損害賠償制度」の有無。
 アメリカの裁判で被害者である個人に対し、腰が抜けるほどの高額賠償金が支払われるのは、この制度があるから。
 思いっきり簡単にわかりやすく例えると、被害者が受けたダメージを企業レベルに拡大して賠償させる、というもの。例えば、年収300万の人が、100万円相当の被害を受けたら、被害を与えた企業に、それに見合う割合のダメージになるような損害賠償支払いを命じる、って言うことです。年商30億なら10億とか。だからファーストフード店でやけどしただけで数億。
 要は弱者を強者のレベルまで仮想的に引き上げてイーブンにする方式なのです。
 日本は、これがない。だから100万円のダメージなら100万円しか賠償されない。しかも100万円で請求起こすと、大体大幅に減額されるので、あらかじめ多めに見積もって損害賠償請求します。変なの。
 でも実際は、私のようなフリーの作曲家が、クライアント企業に例えば500万円の損害賠償請求起こして100万円で決着したら、これはもう生きていけないくらいのダメージがこちらに残ります。大企業にとって100万円の損害賠償なんて、屁でもありませんが。
 何故100万円もらってダメージが残るかというと、仕事干されるからです。理由はどうあれ、日本ではクライアント様に逆らった下請け虫けら作曲家は許されないのです。私一応、権威ある学者さん監修で編纂された「日本の作曲家」という人名辞典に収録された作曲家ですが、そんなもの吹けば飛ぶようなステイタス。実際この裁判起こしてから、私は今日に至るまで、それまでメインの収入源だったCM音楽の作曲依頼、ゼロ。勿論これは想定内でしたけどね。全くなんちゅう社会文化。出る杭は打たれるどころじゃないですよ。体制に逆らうもの、よってたかって袋叩き、です。同業者からですら、バッシング受けましたから。余計なことしてくれるな、とか。
 聞く所によれば、様々なシーンで私の名前が出ると、広告代理店の人の顔色が変わる、って言うこと、あったそうです。キャリア的立場的に、避けて通れない裁判ではあったけれど、自分の名誉以外に、日本の作曲家達が置かれている不利な状況が少しでも変われば、という願いもあって始めた裁判でした。賠償金目当てなら、どうにかしてアメリカで訴訟起こします(^_^;)
 あれ以降、作曲家の処遇、多少改善された部分もあるのかもしれませんが、自分の作品が、その後どんな使い方をされようが一切文句は言わないと、作曲家に仕事引き受ける時念書を書かせる音楽プロダクションも出たと聞きます。糞でも食らいやがれ、あ、失礼、下品なので書き直します。大便でもお召し上がりください。
 その裁判おこして直ぐ、私は沖縄に引っ越しました。これにも様々な理由が複雑に絡み合っています。大企業相手に裁判起こすと、狙われるから、できるだけ遠くへ引っ越したほうがいいというアドバイスも数人の方から貰いました。でも、それが主な理由ではありません。当事住んでいた京都で、二年続けて大病を患ったのです。最初は喉頭蓋炎という、下手すると死に至る恐ろしい病気。二年目は視力を失うかも知れなかったほどの重篤な急性副鼻腔炎。この二つの病気に関しても一冊本が書けるくらい、面白いエピソードあります。ある病院の、とんでもないヤブ医者のお陰です。とにかく私、京都の夏の暑さには耐えられても、冬の寒さにはどうしても耐えられなかったのです。冬になると血行悪くなって目眩してたし。
 まあとにかく、温かい沖縄に引っ越したのですよ。沖縄では、CMと関係のない、劇団のミュージカル音楽とか、楽器メーカーの仕事とか、カレーの通販とか、自主ライブとか、そんな事やってました。沖縄は沖縄で、あまりの湿度の高さに、自宅にいて何もしていないのに、のぼせてふらつく、なんて事もありましたが。高湿度ゆえの関節痛にも悩まされました。でも健康的に痩せましたよ。
 沖縄で子供が生まれて、今のままではこの子が成人するまで、食べさせてやれないかもしれない、という不安が頭をもたげてきたのですね。景気はどんどん悪くなるし、あなたのような人にこそ仕事をお願いしたい、と言ってくれた侠気のある企業は潰れてしまうし。身内や友人が若くしてバタバタと亡くなって、しかもその全ての死因が癌か自殺かという、非常に辛かった時期です。たった一人の弟が急逝したという知らせを受けた直後、サンプラザ中野氏が我が家を訪れたのですが、彼の剃り上がった頭を見て、翌日自分もツルリンと頭を剃りあげたのもこの頃でした。
 そんな中、かねてより付き合いのあったフランスのシンセメーカーで、専属サウンドデザイナーが辞めた、と聞いて、その会社の社長に「◯◯辞めたんだって? サウンドデザイナーいないと困るだろ? 俺が行こうか?」ってメールしたんです。すると「いいね、じゃ、試験的に2ヶ月ほど来てくれ」という返事が。要はオーディションですが、これがきっかけで私、フランスに移住することになったんですよ。(以下次号)
posted by ubuman at 06:20| Comment(0) | TrackBack(0) | フランスに来るまで